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思い出のなる木2

 小学4年生の夏休みに、姫路から神戸に行って、夜逃げのように東京の四谷に引っ越しました。それから今まで東京で暮らしています。 

 ボクの故郷ってどこなんだろう・・・この思い出の木を育てて、自分の心の故郷を探してみようと考えています。

初めてのコーラ!!

 これは日付こそ確かではないが、小学5年のクリスマス・シーズンのことだった。2つ年上の兄は中学生で参加できなかったし、2つ年下の弟は小学3年生で一緒に参加していた。

 その当時、半蔵門の手前の角地、現在の国立劇場が立っている場所に、米進駐軍の基地があって、ここのチャリティー・クリスマス会に近在の各町内で十名ずつくらいの小学生が招待された。

 今思うと、選ばれた基準がどうやら貧しい家庭の子供だったようで、兄弟2人が選ばれたのだから、我が家はかなり貧しかったようである。

 さて、ボクが通った四谷第一小学校は、文化放送の真前にあった。午後1時の集合に合わせて、昼を過ぎた頃になると、そのラジオ局の玄関広場に進駐軍の深緑の大型バスが10台ほども並んで異様な雰囲気であった。

 どうやら進駐軍は小学校側の事前了承を得ていなかったのか、さもなければ、左派の先生が頑として反対をしたのか、校門のところで、「行ってはいけません、教室に戻りなさい」と飛び出そうとする子供を押し返すのに大変な混乱になった。

 もつとも、ボクと弟は示し合わせて、午前の授業が終了して直ぐに早退して、近所の知り合いにランドセルを預けて、さっさとバスに乗り込んでいたが、体操の先生がバスの扉の前まで来て兵隊さんとやりあっているときは、本当にどうなるか生きた心地がしなかった。

 あれやこれやで、腕白たちは校舎の垣根を飛び越えて、上手にバスに乗り込んだし、午後1時過ぎにはバスは出発した。

 片言の日本語でナンやら説明をしていたが、10分ほどで半蔵門の基地に到着した。カマボコ型のバスと同じ色の弊社が並んで、そこに入るときは、変に緊張した。

 明々とした室内には天上までまのクリスマスツリーが飾られ、ジングルベルの曲が流れ、エプロン姿のでっかい女の人たちや、真っ赤な衣装のサンタクロースが並んで、まるでおとぎ話の別世界に紛れ込んだようであった。

 長いテーブルの上には、見たこともない大きなケーキが飾られ、クッキーやらチョコレート、キャンデー、サンドイッチ、飲物があふれていた。

 何がなんだか分からないが、不気味な黒い色の飲物をコップに注がれると、シュワシュワと泡が立っていた。最初に飲物に手を出したのは弟だった。ゴクゴクと飲んで、目を白黒させて苦しそうな素振りをして咳き込んだから、ボクは怖くなってしまった。

 弟は次に鼻をつまんでゴクリゴクリと飲んだ。「美味いのか?」と聞くと「美味いがゲップが出る」と答える。それでボクも鼻をつまんでチョビチョビと飲んだら、薬のような味だがラムネよりも美味かった。

 腹がカエルのように膨らむまで食べたり飲んだりした。

 それから抽選会があって、クリスマスツリーの周りに置いてあった派手なリボンのかかった大きな箱が配られた。みんなブリキのおもちゃで、女の子にはままごと遊びのセット、鏡なんかの入った子供用の化粧セット、男の子には機関車の模型やミニチュアのバス、消防車もあった。弟には機関銃が当たって、直ぐに撃ちまくって兵隊さんを困らせていた。ボクにはジープのミニチュアが当たった。

 バスに乗って文化放送の広場に帰ってきたのは、もうあたりが薄暗くなっていた。

 ボクはあれからアメリカの兵隊さんが怖くなくなっていた。
 50年も前に初めてコーラを飲んだのを、今でもはっきり覚えている。

ガン鉄とノラ猫

 小学4年の夏休みに父と兄弟3人は上京した。兄が6年生、弟は2年生、直ぐに近所のガキ大将になれたのは、チームワークが良かったのだろう。

 四谷といっても町の坂下に当たる若葉町で、その一帯は大昔は海だったのでサメがいたなどとまことしとやかに伝えられ、俗称を「メサ」と呼んでいた。

 信濃町の駅から坂上にかけては政財界の大物のお屋敷が並んでいたが、キリスト教会のだんだら坂を下ると、その辺りは的屋の親分やチンピラが多い下町であった。

 今思い出しても貧しいトタンに囲まれたバラック小屋に住んでいたが、入口の前には隣りの庭と接して、わずかな庭があった。その一角に当時流行りのハト小屋を建てた。2つの小屋に仕切られて、人が出入りできる扉もついていた。ちょっと自慢できる大きさで兄と父が作ったのだ。 

 ここで伝書鳩を飼うのだが、20羽もいただろうか、それに、このハト小屋は、小屋の作れない近所の腕白たちが自分のハトを持ち寄っていた。

 四谷見付にあった小鳥と金魚などを売っているペットショップから、血統書付きのハトの卵を買ってきて、安いハトたちに抱かせて育てたものだ。本当かウソかは定かではないが、鼻の根元のこぶが大きいと速く飛ぶなんて言われて、何百円もする卵はみんなの共有の宝物だった。

 町内の子供たちは、こぞってハトを飼っていた。訓練するのには、四谷から電車に乗って、市谷、水道橋、両国と次第に距離を伸ばして、江戸川を越えると一人前のハトになった。日曜になると自慢のハトを持ち寄って、千葉の市川あたりにハトを運んで、昼を合図に空に放すのだ。

 自動の記録機なんかは無いので、いつも小さな公園が本部になっていたから、到着したハトを持って確認しに走るのだ。何にも貰えなかったけれど、何回か続けて勝つと噂になって、その卵が50円くらいで売れた。

 時々、大人たちの訓練されたハトが空高く舞って旋回しているいるときがあった。これは大きなレースバトの大会などでコースを外れた迷いハトなんだ。この迷いハトを見つけると、子供たちは一斉に自分のハトを空に放す。先に赤い布のついた竿だけを振り回して、ハトを飛ばす。

 すると、空高く舞っていたハが、その子供たちの放したハトに近づいて一緒にハト小屋に入り込むのだ。

 運が良くてハトが釣れると、子供たちは足についている足カンを読んで、四谷のペットショップに意気揚揚と報告に行った。ハト協会から飼い主に連絡が届いて、普通は菓子折りがお礼として貰えたが、1000円も貰った奴がいてビックラしたこともあった。

 良いことばかりじゃない。餌代にも事欠いていたので、空き地を利用して麻の実を撒いたら、石ころだらけの荒地でも大きな麻が実をつけた。そして、ある日、おまわりさんが飛んできて、これが麻薬になる大麻だと言って、ひどく説教され、根こそぎ引き抜かれたこともあった。

 ・・・・そして、ある日、近所のノラ猫がハト小屋に侵入して、小屋の中の全部のハトを傷つけてしまったことがある。小屋の中でパタパタして逃げられないハトを見つけて扉を開けると、トラのノラ猫が飛び出して逃げた。

 ハトを飼う子供たちは、みんなノラ猫が憎かった。ノラ猫こそが敵であった。

 仲間のガン鉄は小学校から帰るとすぐに、大きな石を持って、ノラ猫の通り道の石段の上に立ってノラ猫が通りかかるのを待ちつづけた。

 いつも日が暮れた夕飯時に現れるのが分ると、飯を食うのもそこそこに、丸5日も薄暗い中に立ちつづけた。

 ガン鉄の紹介をしていなかったが、ガン鉄は小学3年生でボクより1つ年下であった。あだ名のとおり小さいながらもガンコそのもの、真ん丸ないがぐり頭をしていた。

 そして、ガン鉄はついにノラ猫の頭上に石を落とすのを成功したのだ。どの程度ダメージを与えたのかは、それ以後このノラ猫は姿を見せなくなったから分らないが、確かに家の中でもギャ―と鳴く猫の声を聞いたから、どこかに石が当たったのは本当であろう。
 
 かくて、ノラ猫退治のガン鉄はちょっとした英雄になったのだ。

 追記・ボクは約30年前に猫に関心を持ってから、年を追うごとに猫が好きになり、今では猫だらけの毎日を過ごしている。

 このような思い出があるので、猫が大嫌いな人がいることも理解しているし、嫌いな人に猫が近づかないようにと願っている。

 猫の嫌いな人が猫を追い払う手段を考えると、非常に悲惨なことを考えるケースも多く、どうすれば良いか、いろいろな角度から考えめぐらすが、いまだに効果的な方法は考えられないでいる。良い知恵があったら知らせて欲しい・・・